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「江戸城は逃げる工夫が巧妙にされている城郭だった」

江戸城は、家康、秀忠、家光の3代でほぼ完成されました。最大最強の難攻不落の城郭と評価されていましたが、幕末の無血開城まで攻防戦は有りませんでした。堅い守りではありますが、実は巧妙に逃げる工夫がされていました。

攻城側としてどの方面から主として攻めるべきかを考えてみました。当時の江戸城の図面を見ますと、北面の平川門や竹橋から攻め入ると本丸の天守閣に最短距離で到達します。天守閣の裏門とも言える位置にある北詰橋門の前面は土橋と小規模な跳ね橋で天守閣に近づくには最も安易に見えます。天守閣の前面には本丸御殿がありまさに江戸城の中心部です。これはまさしく罠なのです。広い堀や高い石垣を越える必要もないのです。本丸に侵入した攻城の軍勢は本丸御殿がもぬけの殻と気付いた頃、城主やその一族は西詰橋を通って広大な現在の吹上御苑をお庭番の伊賀者に守られ半蔵門に到達します。ここから四谷御門までは一直線で、四谷御門を出ると甲州街道が一直線に甲府まで伸びています。

甲州街道沿いにある現在の四谷税務署近辺には伊賀者の組屋敷があり、伊賀者が次に護衛に加わります。ここから更に甲州街道を西に進むと現在の新宿区百人町には鉄砲百人組が常駐しており、さらに護衛に加わります。更に更に進みますと八王子には千人同心が屯田兵としてあり、また護衛に加わることになります。このようにして甲府を目指したと記述している書籍もありますが、実は山梨県大月市にある岩殿山城を目指していたのです。岩殿山城は、かの偉大な乃木将軍が日露戦争の激戦地の203高地の攻略を研究するために登山したとの史実があります。私も登ってみましたが、難攻不落の山城です。

以上の記述には、私の見解が混入されています。

 

 

 

 

2017/07/24/新着情報

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